信じられないぐらい、幸せ
言葉で満足して、何になるのか。
知的好奇心を満たして、何になるのか。
いつまで、そんな下らない事で遊んでいるのか。
時間が、無い。
目の前に、本物を見ても、ふざけて遊んでいる。
本当の事を必死に伝えようとする人を前にして、
睨みをきかせ、猛烈に抵抗する。
真剣なふり。
何もかも、でたらめだ。嘘だ。
習慣の真面目さを持って来て、何がしたいんだ。
誠実って、何だ?
いまさら、いまだに、自分的誠実を表現したいのか。
いつまでも、自分の頭の中のお喋りが大切で、
いつまでも、他人の話も大切で、
あるいは、どちらも大切だと思わない。
思っている事、思っていない事が世界の全て。
縁しているものごとの全体の中に居ようと試みないのか。
なぜ、自分から見た世界だけ、重要になってしまうのか。
人間だけでなく、全てのそれぞれの世界があるとしたら。
自分世界だけの視点を持っていたら、そこに愛は無い。
本当の事だけに透徹しようとしたら、すべての世界を全方向、
一つも漏らさずに見なくてはいけないから物凄い情報量で、
私という個人一人が処理しきれる量じゃない。
私は、スーパーコンピューターじゃないから。
でも私にできる範囲で全ての世界を均等にあるものとして
扱うなら情報を越えていないとまとまった所にいられない。
そこで、私は簡単に知性を越える。
本当にゴミのように下らないオカルトや超能力も無視して。
あれは知性の一つに過ぎないし、
その中においても幼稚なものでしかない。
知性を越えたら目に見えないものの事かと人は想像する。
目に見えないものとして認識するのなら、
それだって知性の範疇だと、なぜ気づかないのか。
エネルギー?
透明な何か?
心?
まだ解明されていない科学的オカルト事項?
全部、モノじゃないか。
未知ですら、定義できる時点で終わってる。
それらを一切捨てて飛び越える以外無い。
いや、そんなに遠いはずもないのだが。
結果、何も無い所にいるしかない。
個人的に分かるとか、分からないといった分別とは
関係の無い所にいるしかない。
どちらかと言えば、最初のうちは個人的には沈黙で、
何も見えず、何も聞こえないと思った。
一瞬だけ。
でも、それは初めて試した時だけだった。
経験した人にしか分からないだろうし、
最初から狙ってできる事でもないだろう。
恐怖が伴うものだし、それを越えるのは誰でもない自分一人。
感覚を失ったかのような誤解はすぐに消える。
実際は個人的な分かるとか分からないは、他のものたちの
それと同じように包含されているものだから、
それらを善いだとか悪いだとか抑圧するまでもないのだった。
全てを同じものとして見なす所にいるのなら、
そこに個人的自分が含まれていないとおかしいのだから。
普通でいるしかない。
だから、と言うと話が飛躍しすぎるのだが、
いずれにしても自分を通じて起きている生活の中から
そう言った事を探究しようともせず、
ただ苦悩の中にいる事を選ぶ在り方を、とても憎んでいる。
個人的に誰がという事ではなく、自分を含めた人間の、
そういう怠慢さがとても嫌だ。
なぜ、こういった事を学んでいる機会を前にして、
自分なりの学びたい物事を持ち込むのを止めないのだろう。
武道、男らしさ、幸せ、本当の事、健康…。
いいから、そんなもの脇に置いて、
たった数秒でも静かにしていられないものか。
ご利益を期待もせずそれができるのなら、
”何か”は二度と戻ってくる事は無いだろう。
そんな事何一つおかまいなしにそれはただそのままである事。
意味が分からない人には分からないだろうけど、
私は、本当はそれすら許せない。
笑ってしまうほど私は大抵いつも怒りに燃えている。
真実に対してすら怒っている。
ただ、驚くべき事は私は大抵、不機嫌ではなく、
むしろ信じられないぐらい幸せだということだ。
2016/12/14 久保 真礼