自覚なく
最近、稽古の中で以前の癖に戻る状態を体験しています。
そして正気に戻ると、自分が何をしていたのかが分かります。
逆に以前の癖から抜けられずにいる最中には分かりません。
現時点の感覚を言葉にすると、以前の癖に戻る前よりも、
自分の癖が明確になりました。
しかしこの明確さは時間の経過とともに自覚できなくなり、
再び自分の性分、癖といったフィルターがかかる気がします。
それを取り除くには稽古に来るしかないようにも思います。
それでは、自分の癖とは何だったのでしょうか。
人それぞれなので、参考にはならないかもしれませんが、
あえて書くと、手応えのない状態を放置する事に耐えられず、
少しだけ確認し、手掛かりを得ようとすることです。
これは自覚なく行ってしまうものであり、
自力でそれを抑え込むことは別の問題を生んでしまいます。
抑え込むこと自体はできるのですが、その結果、
働かなければならない機能までシャットダウンさせる。
この悪循環を断ち切ったのは、下手に対して、
さらに言うと周囲のすべてのものに対しても、
徹底して関与しないことでした。
稽古を始めて長い方は、
これが “関与しないという行為をすることではない”、
ということは理解していただけると思います。
その結果気付いたのは、歩くという行為ひとつとっても、
目的を持って行っていたことです。
目的は結果を求めることに繋がるものです。
自分では結果を求めていないつもりでも、
それは自覚がないだけで、しっかり求めていたわけです。
それではどうすれば・・・、という観点で言い換えると、
下手の存在を意識する前の状態、
普段のままの状態に何も追加してはいけないということです。
下手の存在を知覚しても、アプローチをかけることなく、
そのままであり続け、下手に向かって歩くとしても、
何も追加しないで、ただ歩く。
何だ、そんなことは分かってるよ、
という感想を持つ方が多いかもしれません。
それでも、自覚なく何かを追加していることがあります。
優れた下手の協力がないと、そこに気付くのは難しいです。
2015/12/5 下里 康志