最後まで残るもの
これまでに身に着けた信念、概念、技術などを次々に捨て、
気づきを妨げる制約を解いてゆく。
もう捨てるものが見当たらない。
だが、これまで稽古の中で何度も訪れたあの状態は訪れない。
もう、あの時の自分には戻れないような気さえする。
焦りが増す。アドバイスを受ける。
言われていることの意味は分かる。
その通りやっているつもりだが、何も改善されない。
上記は誰もが経験するものではないかもしれないが、
自分にとっては厳しいチェックポイントだった。
日曜日の稽古でキワに立っている何人かの人の下手を取り、
改めて思い返してみた。
自然のまま、制約を加えないようにする。
これを自助努力として行っていた。
これはある程度の下手を騙すことはできるが、
抜けてしまった人には明白な濁りと映る。
とても悠長なことをやっているように見える。
なぜ、ありのままをありのままに見ることができないのか。
自助努力にかまけて、
目の前のことが見えていなかったからではないか?
それは上手側には一瞬のことでも、
下手側からは永遠とも言えるほどに長い。
自助努力によって現状から抜け出ようともがいている人は、
気づきが自己の肉体の中に閉じ込められ、周囲との間に
決定的と言えるほどの断絶をもたらしているように見える。
自分のように思考の整理と概念の構築を職業とする者は、
もがき続けることに疲れ、あるいはもがく手足が空転して
初めて気付くのかもしれない。
それでも、きっかけは稽古の中にあふれている。
これまで何度も聞いたはずの先生の言葉かもしれないし、
稽古仲間の真摯な下手かもしれない。
そこに居続け、それに触れ続け、向き合い続けることだ。
2015/8/12 下里 康志