ニュートラルについて
「ニュートラル」
最近、この言葉を使う人は少ないようですが、
昨日の稽古で改めてその意味について深堀りできました。
二十数年前、自動車教習所に通っていた、若き日の下里君は、
教官から「ギアをニュートラルにしてみろ」と言われました。
当時の教習所の教官は強面が多かったので、命令口調です。
下里君は自信満々で、ギアをローポジションから抜き、
「はい、ニュートラルです」と答えました。
教官はニコリともせず、
「シフトレバーから手を放してみろ」と言いました。
その通りにすると、シフトレバーがわずかに動き、
そして停止しました。
教官は、
「これがニュートラルだ。
他のポジションはすべてニュートラルとは言わない!」
と冷たく言い放ちました。
マニュアル・シフトの免許を持っていない方、失礼しました。
何のことか分かりませんよね。
言いたいのは、自分で言われたとおりやっているつもりでも、
実際はそのとおりではないことは結構ある、ということです。
「目力を込めず、全体を見て、リラックスして自然体で立つ」
これは、ニュートラルでしょうか。
違いますね。
少なくとも4つの自力が働いています。
いや、おそらくその数倍、
数十倍の自力をもって自然体を演じています。
そこに気付くトリガーとなったのは、
驚くべきことに、先生の話です。
随分以前に理解したと思っていましたが、
それは理解ではなかったようです。
今、それを理解しているとの断言する自信はないですが、
少なくとも、「ただ、立つ」という行為そのものにさえ、
自己欺瞞があったことは明らかです。
少し前に「最近、下手の指摘に違和感を感じることがある」
という事を書きましたが、片付かないものを多く持ってると、
指摘も漠然としたものにならざる得ず聞く側も理解できない。
残っているものが少なくなって来れば、
ピンポイントで響く指摘が得られるように思います。
そこまで行かなければ、どんなに的を得た愛に満ちた教えも
言葉のコレクションになりかねない。
コレクションもいつか役に立つ日が来るかもしれませんが、
そこに行かなければ日の目を見ない。
分かっている、できているという自己欺瞞には要注意です。
「分かる人、できる人」 という括り方が既に。
2016/8/30 下里 康志