厳しい稽古
以前、長い剣で立ち合いをしている事を日記にした。
確信をもってこちらに指摘するポーズで来るその確信って何?
と言うものだった。
私から見たそこには、何かがすっぽ抜けたまま。
それから、私も下手を取り続けながら、
下手として叩きに行くほどでもない上手を前に、
どうしてよいのかわからず、何もしない、
という取り組みが何度かあった。
先生に確認してみると、それはそれで間違いではないとの事。
なぜなら上手自身が何もしていないからね、と。
そうか、と思った。
相手によっては、抑圧し過ぎたまま立っている相手、
拒絶だけで立ち続ける相手、完全にエネルギー不足の相手、
それを前にして、何も求めていない事が感じられ、
アドバイスする気もなくなった時が何度もある。
稽古に来ていながら、何も言わないでくれ、というのだ!
そうでない相手にも、
私から意見するような事はどんどん減っていった。
たまに、
その中で下里さんがご自分の状況をお尋ねになる時もあった。
そういう時、こちらが何を答えようと、
下里さんは自然と良くなっていった。
自分が求める時、それは変わっていくらしかった。
だから、自分から求めていない人は、変われない。
それが今その人が求めている事なのだから、
周りができる事などあるのだろうかと思う。
私が自分のための稽古ができていないな、と感じた時、
それはないだろう、ただの自分の努力不足だろう、と思った。
何が問題なのか、ちょっと気になっていた。
先生に聞こうと思っていたが、どこかで忘れた。
先日の稽古で、それを再び思った。
全く頑固でやめない理由だけを見つけに来ているような状況の
上手を前に、相手よりも自分を使って稽古をしようと思った。
それはいつだってそうだったのに、うっかり忘れていた。
相手ではなく、
相手を見て感じているこの何かを手掛かりにすれば、
十分稽古ができる、と思った。
剣を持ち、分からないところから進んでいく。
みたまま、振り下ろす。
いや、振り下ろす、が起こっている。
相手に剣がぶつかる。 とても嫌な感情がどっと残る。
残心について、先生に尋ねる。
我々に分かるのは、間違いだけだ、とも聞く。
そうか、と思う。
何度か、持ち上げた剣のまま歩き、剣を下ろす。
相手が顔をそむければ、そむけたその隙間に剣が入っていく。
相手がどう感じているかなど、悪いが、知らない。
時々、どっと、嫌だ、と言う感情が溢れる。
無駄な殺戮をするのか、暴力依存的な馬鹿さを見る気がして。
あるいは、それに対し、何の手立ても取ろうとせず、怯え、
憎み、対立する事で何かを守っている何かに苛々として。
でもそれもこれも、通り抜けていく。
通り抜けていくうちに、おや、と思う。
やはりどこまで行っても、
自分が感じる事と言うものに全く価値が無いという事に、
ああそうか、と思う。
先生の話を聞く。
聞いている最中に、それそのものが顕れる。
これまでは、何かの時、
それが当たり前であることの確認をして来た気がする。
そしてそれは確かにそうであり、
それがあったからこそ戻らないで済んだような部分もあった。
だけど今回、私はそれをすっ飛ばしてみた。
それが当たり前、と言うものすら要らないだろう、と。
すると、本当にそれはそうだった。
力のない、だけど軽快な笑いが込み上げてしまった。
先生から、夢を見ていたいのか、
とコメントしていただいた事がある。
そうか、と思う。
理解とか、合点とかではない。 ただ、そうか、と。
そこに答える者はいない。
夢も、見ている者も、あるはずもないのだから。
そのうち、剣を振り上げる事自体が馬鹿らしくなってきた。
剣ほどの必要も、感じない。
でも持ってはいるのでそのままにして、
それよりも早く動ける身体で入っていく。
勝手に剣は喉元をどつく。どつく。
何やってんの、と、剣が勝手に喉元を突き刺していく。
稽古は、とても厳しいと思う。
でも厳しくなかったら、稽古じゃないとも思う。
2018/2/12 久保 真礼