それそのもの
稽古で自分と他人を比べるのは間違っている。
学ぼうとして他人を観察するのも間違っている。
私と他人。
前提を間違えているところから学ぼうとしている。
なぜ分離したまま何かを見て、
概念で感じた事から学べると思うのだろう?
音を聞こうとしていないのだから、話を聞き直しても、
もう意味は無くなっている。
話を聞き直す時、
もはや分かろうとする”自分” の暴走だ。
それは苦しみから逃げようとする自分の、
苦し紛れの言い訳の姿に過ぎなかったのではなかったか。
聞く”自分”というのは、どのようであれ騒音だ。
本当にそう感じる。
ここ数カ月、
むきだしのままの体験でもよいのにと時々感じていた。
邪魔しているつもりはないのに何かが膜のようにかかり、
やんわりとしか体験できないような感覚。
自分自身が疎ましく、もどかしかった。
これ、無くていいんだけど、
別に恐怖で死ぬならそれでも良いと思っているんだけど、
と言葉にならないままそんな事を感じていた。
観られているものではなく、観ているもののハッキリさ。
それは自分では体験し得ないハッキリさではあるけれど。
もしそうであるのなら、
このどの場面においてもそうであろう。
不都合だろうと、
関係のないと思える一挙手一投足であろうと。
仮に死ぬのであっても、その瞬間を鮮明にしていたい。
もともとの鮮明さであるには。
そう思っていたら、すべての動きが繋がっていた。
自分の判断などとはお構いなしに、
それはそちらの都合で勝手に繋がっているようだった。
最近の稽古で感じていた、
展開を変えようとしている瞬間の戸惑いみたいなものに、
疑いがなくなった。
疑いがあっても、もはや関係はなかった。
先生の言うように、それは抜け殻のように、
そこに置き去りになっているようだった。
あれば、あったなりに。
生とか死というのは、概念の中にあるのであって、
気づいてみれば概念はいつだって生まれては死んでいる
ゴミでしかなかったように感じる。
置き去りになったあの想いは、
死んだゴミ、死んだ自分だった。
自分とは、そういうものだった。
その最中に立ち、手にした剣がこの身体を守ってくれるのか、
どんな利益があるのかは全くわからない。
でも、それそのものでありたい。
それと同時になってはじめて、
今起きていることそれそのままを認め、起こる気がする。
いや、こうありたいとか、本当はなんにも無いのだけど。
楽しくて仕方のない稽古だった。
稽古で苦しい人には、その視点の死守こそが誤りで、
指し示されている事は、全くそこを対象にしていない
という事に何とかして気づいてほしいとは思うけれど、
個人性があると思い込み、
そこにすがる事で生き永らえているつもりの執着的な何かは、
解放される事を決して望まない事はよく分かるというものだ。
自分だけが特別で、いつも自分は注目されているという誤解に
取り憑かれていたいなんて、ちょっと信じられない。
だから稽古はとても楽しいのに凄く深刻な気持ちも味わった。
2018/5/21 久保 真礼