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ただ立つと言う事がどれほど難しいか、
稽古で遅れを取ってしまっている方を見ていて感じる。
実際には、ただ立つだけなのだから難しいはずがない。
ただ立つと言う事ができないほどに雑音の虜になり、
雑音を現実と勘違いして夢想の連鎖に飲み込まれている事に
気づけていない。
と書くと、
認識側に落ち度があるかのように見えるので言い直すと、
それをそうさせているものへの親しみが低い。
親しみが低いのは、認識側のせいなのかはわからない。
でも求める人は、それを求めないわけにいかないだろう。
今は教えてくれる人が生きて目の前にいるのだから、
聞かないのはもったいない。
関わろうとしないのも、もったいない。
だってそういう人と関われば、
そうさせているものと親しむことと同じなのだから。
眠りにつく時、やけに静かだなぁ、と毎回のように思う。
目は閉じる。睡眠という働きが起きる。
でも、寝入り前と寝入った後の違いがあるとは、
とても思えない。
それは起きていても同じで、目を閉じていても、
開いていても本質的な違いを見つけられるとは、
とても思えない。
認識の観点から、認識を見てみれば、
それはそれぞれに異なる変化なのだろう。
そしてその変化の中には、
なにかとても重要なものがあったり、
忌み嫌うべきものがあったりするのだろう。
実際、今もそれはこの身体にも絶えず起こるのだけれど、
その中に何かたった一つの真実があるとは思えない。
すべて同じ、といった認識を常に感じる訳でもない。
変化自身を変化であるとも気づかず、
一点の基点のようなものがあると言う錯覚の中で
夢を見ながら生きているように見える。
しかも、それらはあんまりいいものには見えない。
他人を見てそう感じて、自分もそうなんだなと感じる。
すべて同じものに見えるほどの何か。
すべてが絶え間なく変化していくものに見える何かがある。
それは、いつだって自分が感じているものとまったく同じ
ところにあるから、分かったり支配できる範疇の外だけれど。
2018/6/6 久保 真礼