病みを
夢の中で夢を疑わずに見続ける行為は、
深刻な病気だと感じる。
見えているものを否定してまでも、見たいものや見えてしまうものの中毒でいたかったし、いてしまうのが、かつての自分。
見たいものや見えてしまうものが、
社会的に多数で道徳的ならOKとでも言えるのか。
誰にOKを貰ったつもりでいるのだろう。
むしろ何かがどうにかなれば、誰かがOKをくれるんだ、
と言う事を疑っていなかった。
その実体を考えた事も探した事もなかった。
でも実際には妄想的承認元がいた。
ぜんぶただの記憶だった。
何でも自己肯定的な人間は人生において円満かと思いきや、
ただそういうロジックを持ったロボットに過ぎなかった。
現実なんか、見ちゃいない。
むしろ、ロジックを回すためなら
何でも曲解するのだから現実との乖離は酷い。
「病み」を壊しにかかる事は、
目の前にあるゴミを片付けるぐらい当たり前の事だと思う。
ましてやそれが外科的手術が必要な訳でもなく、
ただの習慣病なのだから自分でアクションを起こせるわけで。
それをある時期には
「自分には何もできない」 と言って同化していた。
教師の話を曲解していたし、
思考の奴隷だった事が露呈している。
本当に自分には何もできないところに辿り着いているのなら、
何もかも まかなってくれていたそれだけがある。
ずっとそうだったものに丸ごと飲み込まれる。
2018/7/8 久保 真礼