笑ってはいけない
認識が何であるのか探究する事を平気で怠けて、
人は認識至上主義のまま生きる。
そういう中で稽古をしていると、私は存在しない、
というちょっとした発見をする時がある。
多少の観察眼のある人間なら出くわすあの体験。
認識だけによる発見の後、多くの人は、内心ひどく怯える。
その発見により現れるのは、”私”という曖昧なものの、
存在と不在の対立構造ではないかと思う。
もちろん、永劫の不在への可能性に対して怯える。
人は、失うという現象に対してとても弱いらしい。
ただ、これは本当に可笑しい。
もう手遅れなのだから。
永劫の不在の可能性ではなく、それは本当に存在しない事を、
人間なら一瞬で誰もが言葉なきまま悟るから怯えるのでは?
と。
だから、
人によっては必死にその妄想にしがみついていたくなるのだ、
と。
ただ、やはり何度も可笑しいと思うのは、
その必死さや深刻さや無かった事にしようとする在り方は、
その人がいかに避けられない真実と出合ったかを意味する。
本当の事を本当のままとして生きないのは、
大変じゃなかろうかと余計な事を心配してしまう。
しがみついていたところから引き離された時の、
ふっと笑う感じとかいうのは、
人間という動物の条件反射的なものに見える。
これまでに、
どんな人でもそういう瞬間が必ず起きるのを見てきた。
そんなに素晴らしい体験をしているのに、
人は笑わない方を選ぶというのだから、不思議だな、と思う。
それがどんなに苦痛でも、
習慣の方が良いと感じるのが人間なのだろうか、と。
2019/6/28 久保 真礼