馬鹿者
稽古で色々な取り組みを見ているうちに、
何が物事をおかしくさせてしまうのか、
よく判るようになってくる気がする。
もちろん、仕組みがか判るだけ。
自分という問題には、何も作用しない。
自分にそれを作用させるには、
この認識の何が物事をおかしくさせているのか、
に取り組まなくてはならない。
と言うと、考え方の中に何か間違いと正解があって、
それらを探すような事をし続ける。
初めのうちは仕方ない。
でも、何年も取り組んでいたら流石にその繰り返しに
うんざりしないのかな、と思う。
ここから答えを見つける事は不可能なのだな、
と察する時が来ない方がおかしいと思う。
察した後、
本物はこちらではないかと思われるものが顕われるのは、
道場に通っていたから縁できた事だった。
自分に先立つものを自分は見つけられない中で、
他人の取り組みを通して、
また、自分の身体が自分のものではないかのように働く体験を通して信頼が築かれて行った。
私は思うのですが、こういう事に取り組んでいて、
自分の頭の中がうるさいんです、と悩む人が沢山いるけれど、
それは間違いなくそのうるさい考え事に完全に魅了されている
だけだという事。
悩む行為は人々を疲れさせるけれど、
それこそが考え事を持続させる活力になるという事。
だから私はそういう悩みを抱く過去の自分に対して、
一つも気の毒に思えない。
中毒者でいたい人の取り組み方であるし、
取り組み方を間違えているから。
取り組みを間違える事にすら怒りを感じる。
その理由は、稽古であれほどまでにあからさまな真理を、
感じ取れないほど馬鹿になってる人間には期待できないから。
そして自分の馬鹿さに心から気づいた時、人は変わる。
その不都合な真実は勝手に起きるのだけど。
気づけないと、ただ何となく恐怖を感じたり、
うやむやにしたり、逃げたり、無かった事にして、
馬鹿を繰り返す事を選んだり。
知性で気づこうとする無意味な方法をやめることをせず、
何度も同じ結果にぶち当たる事を繰り返す人も沢山見て来た。
あれが見えるだとか、気を感じるだとか、
人と違う見解があることで特別な自分を演出するような事と、
本当の自己を見つける事は、全然違う。
そういった事で何を守ろうとしているのか、
そのおかしさに目覚めるまで人はいつまでも大馬鹿者だ。
仲間から、「自分にがっかりしたくないんです」
と、聞いた時の愕然としたことよ。
かける言葉も無いのは、言うまでもない。
2019/10/6 久保 真礼