それが私を見つけるまで
この学びの魅力的なところは、なにも剣を用いなくとも、
病に伏していても、死の淵にいても、本来は学べることだ。
思い上がったままの観念が、武道で試され恐怖する事の
素晴らしさ、確かさも、もちろんありますが。
本当の発見は、
本質に触れている事にも気づかずして触れていて、
そこから外れた時。
はっ、いまおかしかった…と、ふと感じる時。
そうやって、要らないものをやめていく。
だから、取得感とか達成感に繋がらない。
考え、概念、想念、自我、感情、言葉、感覚といったものが
すべて同じものとしてまとめられてしまうほど、
それらとは無関係な、止められない、時の無い、
事実として切り取るのさえ おかしいこれそのものは、
こうして説明したり、
そこから理解する事が不可能なのだと思います。
本当のことに取り組まないようにするためだけに、
観念は狡猾に自分自身を騙し、傷つけ、恐怖させ、
奴隷のように従属させようとする。
怠惰とか、モチベーションがとか、そういう言い訳の感情は、
まさにそんな類だと思う。
無力さを、人聞きの知識ではなく、
自分で見つけるまでは探求したいのです。
探す者がそれを見つけるのではなく、
それがその者を見つけてくれるのだと。
探求することを恥ずかしがったり、ためらったり、
他の考え事と同じものとして遠ざけないでください。
2020/3/17 久保 真礼