2018/01/02
「笑う」について
下手(したて)を取らせてもらって感じたこと。
ソフト剣をだらりと下げて持っていたのに、
何故か大きく振りかぶり、振り下ろしました。
自分の動きに驚き、唖然としました。
少しでも格技をやったことがある人は分かると思いますが、
高練度者を相手に絶対やらないはずの、非合理的な動きです。
でも、合理的な動きとは何でしょうか。
何と比べて合理的なのでしょうか。
この疑問に対して、今持ち合わせている答えは、
ぼやっとしているので、保留します。
何故、驚き、唖然としたのか。
それは、自分の中にある前提が浮き彫りになったからです。
何もしないで立っていると思っていたのですが、
合理的だとされる動きをするという前提をしっかりと持ち、
それに反する動きをしてしまったことに驚いているわけです。
これまで集めてきた技術、
それらを体系化した合理的な動きを必ず実践できると
思い続けてきた自分を発見して呆然としているわけです。
その時、感じたのは、全身のあらゆる部分の動きを
自分がコントロールしていないという、圧倒的な確信でした。
上手で立っている時には分からなかったのですが、
下手で「非合理的」な大きな動作をして明瞭となりました。
そしてそんな動きなのに打ち込めてしまっているという現実。
自分が介在しないにも関わらず、自分の身体が機能し、
やるべきことが行われている。
身体をコントロールする役割を奪われ、
呆然として言葉も出ない。
できることは、笑うくらいのものです。
家に帰ってから、唐突に気付きました。
渡辺さんを相手に上手をとらせてもらい、
何故か崩れまくった過日の体験。
あれは、自分の身体をコントロールしようとする
自分がいないことが瞬間的に明らかとなり、
残っている自分のコントロールが抜ける瞬間だったのだと。
ただ、残念なことに、
次の瞬間に下手の動きに対応する自分がカムバックし、
ボコボコに打たれていました。
これらの気付きを得ても、喜ばしいとは思いません。
逆に、まだ残っているものがあったことを残念に感じます。
自分の中にあるものなのに分からないとは。
2016/8/31 下里 康志
2018/01/01
ニュートラルについて
「ニュートラル」
最近、この言葉を使う人は少ないようですが、
昨日の稽古で改めてその意味について深堀りできました。
二十数年前、自動車教習所に通っていた、若き日の下里君は、
教官から「ギアをニュートラルにしてみろ」と言われました。
当時の教習所の教官は強面が多かったので、命令口調です。
下里君は自信満々で、ギアをローポジションから抜き、
「はい、ニュートラルです」と答えました。
教官はニコリともせず、
「シフトレバーから手を放してみろ」と言いました。
その通りにすると、シフトレバーがわずかに動き、
そして停止しました。
教官は、
「これがニュートラルだ。
他のポジションはすべてニュートラルとは言わない!」
と冷たく言い放ちました。
マニュアル・シフトの免許を持っていない方、失礼しました。
何のことか分かりませんよね。
言いたいのは、自分で言われたとおりやっているつもりでも、
実際はそのとおりではないことは結構ある、ということです。
「目力を込めず、全体を見て、リラックスして自然体で立つ」
これは、ニュートラルでしょうか。
違いますね。
少なくとも4つの自力が働いています。
いや、おそらくその数倍、
数十倍の自力をもって自然体を演じています。
そこに気付くトリガーとなったのは、
驚くべきことに、先生の話です。
随分以前に理解したと思っていましたが、
それは理解ではなかったようです。
今、それを理解しているとの断言する自信はないですが、
少なくとも、「ただ、立つ」という行為そのものにさえ、
自己欺瞞があったことは明らかです。
少し前に「最近、下手の指摘に違和感を感じることがある」
という事を書きましたが、片付かないものを多く持ってると、
指摘も漠然としたものにならざる得ず聞く側も理解できない。
残っているものが少なくなって来れば、
ピンポイントで響く指摘が得られるように思います。
そこまで行かなければ、どんなに的を得た愛に満ちた教えも
言葉のコレクションになりかねない。
コレクションもいつか役に立つ日が来るかもしれませんが、
そこに行かなければ日の目を見ない。
分かっている、できているという自己欺瞞には要注意です。
「分かる人、できる人」 という括り方が既に。
2016/8/30 下里 康志