2018/08/02
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ただ立つと言う事がどれほど難しいか、
稽古で遅れを取ってしまっている方を見ていて感じる。
実際には、ただ立つだけなのだから難しいはずがない。
ただ立つと言う事ができないほどに雑音の虜になり、
雑音を現実と勘違いして夢想の連鎖に飲み込まれている事に
気づけていない。
と書くと、
認識側に落ち度があるかのように見えるので言い直すと、
それをそうさせているものへの親しみが低い。
親しみが低いのは、認識側のせいなのかはわからない。
でも求める人は、それを求めないわけにいかないだろう。
今は教えてくれる人が生きて目の前にいるのだから、
聞かないのはもったいない。
関わろうとしないのも、もったいない。
だってそういう人と関われば、
そうさせているものと親しむことと同じなのだから。
眠りにつく時、やけに静かだなぁ、と毎回のように思う。
目は閉じる。睡眠という働きが起きる。
でも、寝入り前と寝入った後の違いがあるとは、
とても思えない。
それは起きていても同じで、目を閉じていても、
開いていても本質的な違いを見つけられるとは、
とても思えない。
認識の観点から、認識を見てみれば、
それはそれぞれに異なる変化なのだろう。
そしてその変化の中には、
なにかとても重要なものがあったり、
忌み嫌うべきものがあったりするのだろう。
実際、今もそれはこの身体にも絶えず起こるのだけれど、
その中に何かたった一つの真実があるとは思えない。
すべて同じ、といった認識を常に感じる訳でもない。
変化自身を変化であるとも気づかず、
一点の基点のようなものがあると言う錯覚の中で
夢を見ながら生きているように見える。
しかも、それらはあんまりいいものには見えない。
他人を見てそう感じて、自分もそうなんだなと感じる。
すべて同じものに見えるほどの何か。
すべてが絶え間なく変化していくものに見える何かがある。
それは、いつだって自分が感じているものとまったく同じ
ところにあるから、分かったり支配できる範疇の外だけれど。
2018/6/6 久保 真礼
2018/08/01
それそのもの
稽古で自分と他人を比べるのは間違っている。
学ぼうとして他人を観察するのも間違っている。
私と他人。
前提を間違えているところから学ぼうとしている。
なぜ分離したまま何かを見て、
概念で感じた事から学べると思うのだろう?
音を聞こうとしていないのだから、話を聞き直しても、
もう意味は無くなっている。
話を聞き直す時、
もはや分かろうとする”自分” の暴走だ。
それは苦しみから逃げようとする自分の、
苦し紛れの言い訳の姿に過ぎなかったのではなかったか。
聞く”自分”というのは、どのようであれ騒音だ。
本当にそう感じる。
ここ数カ月、
むきだしのままの体験でもよいのにと時々感じていた。
邪魔しているつもりはないのに何かが膜のようにかかり、
やんわりとしか体験できないような感覚。
自分自身が疎ましく、もどかしかった。
これ、無くていいんだけど、
別に恐怖で死ぬならそれでも良いと思っているんだけど、
と言葉にならないままそんな事を感じていた。
観られているものではなく、観ているもののハッキリさ。
それは自分では体験し得ないハッキリさではあるけれど。
もしそうであるのなら、
このどの場面においてもそうであろう。
不都合だろうと、
関係のないと思える一挙手一投足であろうと。
仮に死ぬのであっても、その瞬間を鮮明にしていたい。
もともとの鮮明さであるには。
そう思っていたら、すべての動きが繋がっていた。
自分の判断などとはお構いなしに、
それはそちらの都合で勝手に繋がっているようだった。
最近の稽古で感じていた、
展開を変えようとしている瞬間の戸惑いみたいなものに、
疑いがなくなった。
疑いがあっても、もはや関係はなかった。
先生の言うように、それは抜け殻のように、
そこに置き去りになっているようだった。
あれば、あったなりに。
生とか死というのは、概念の中にあるのであって、
気づいてみれば概念はいつだって生まれては死んでいる
ゴミでしかなかったように感じる。
置き去りになったあの想いは、
死んだゴミ、死んだ自分だった。
自分とは、そういうものだった。
その最中に立ち、手にした剣がこの身体を守ってくれるのか、
どんな利益があるのかは全くわからない。
でも、それそのものでありたい。
それと同時になってはじめて、
今起きていることそれそのままを認め、起こる気がする。
いや、こうありたいとか、本当はなんにも無いのだけど。
楽しくて仕方のない稽古だった。
稽古で苦しい人には、その視点の死守こそが誤りで、
指し示されている事は、全くそこを対象にしていない
という事に何とかして気づいてほしいとは思うけれど、
個人性があると思い込み、
そこにすがる事で生き永らえているつもりの執着的な何かは、
解放される事を決して望まない事はよく分かるというものだ。
自分だけが特別で、いつも自分は注目されているという誤解に
取り憑かれていたいなんて、ちょっと信じられない。
だから稽古はとても楽しいのに凄く深刻な気持ちも味わった。
2018/5/21 久保 真礼