先日の稽古
下里さんと柳内さんの取り組みで、意見した。
内容は、途中までは良いのだけれど、
途中からは自分の知っている結果に流されているが、
そこに棄てるものがあるように感じる、というものだった。
起きてしまう事への同意が最初にあるのは良い。
普通、すぐに認識に寄ってそこすら逃げる、
逃がす人が殆どだから。
でも、途中からどうせこのような未来になるのだろうという
習慣的心理 (稽古で先生の言う素朴認識のことか) に
依存してしまうように見える。
その時、身体は無駄遣いをされたような動きに見える。
流れ、になってしまう気がする。
起きてしまう事の中に、
起きて欲しくない事や向き合いたくない事があるのは当然。
なのに、稽古では叩かれる事に対し 酷く怯え、
怯えを避ける傾向がとても強く見られる。
叩かれる事をポジティブにとらえるとかではなく、
叩かれる事の中にいられる取り組みを見る事は少ない。
狙いも同様で、狙う事にポジティブな要素や
恐怖からの逃げが加わっているのか、
そこにある不動のものを見失ってしまう傾向を見る。
狙いの前を大切にする取り組みを見る事は少ない。
何が大切か、という事だと思う。
それは自分的認識にとって大切かと問う事ではなくて。
学びが繰り返しの中に埋没しないよう、
自分が何を学ばせてもらっているのかを忘れないために、
先生から何を大切と言われていたか、
普段の生活の中で忘れずに学ぶ必要があるのでは、
という事だ。
そうでないと、自分的大切なものを守って稽古し、
何も変われないから。
その頂点がある取り組みができているのは、
今、二人ほどしか いないような気がする。
その頂点を、見失わないでほしいと思う。
自分的認識であるはずもないそれをそのままにできないか。
いや、できているのだけれど、
むしろ自分的認識だけがそこだけを見ないようにし、
死の瞬間を少しでも拒絶なり受容なりできるよう
理解しようと くだらない抵抗で曇らせていないか。
現象というのは、単語にしてその単語である自分が取り込み、
楽したり苦しんだりできるようなものではないように感じる。
人生とか、病気とか、死とかを自分の外側のアイテムみたいに
思うのは、何かとてもおかしな事に感じる。
そもそも自分という括りがあるものだと思っている事自体が、
おかしいのだけれど。
死は、死というアイテムとして本当に訪れるのは、
そういう認識ゲームが許されてる時にだけあるように感じる。
それと一度としてきちんと向き合う事ができなければ、
それは認識ゲームとして続くだろう。
訪れれば怯えたり、受け容れようと努め、
訪れていない時だけへらへら過ごす。
私は、そういうのは いやなんです。
2018/10/29 久保 真礼