2019/12/23
心
心があると思っていた頃は、心を必死に守っていた。
泣かないように。
泣き過ぎると疲れるから。
傷つかないように。
傷つくと、痛いから。
今は、心があるとは到底思えない。
あるのは、あふれる水とか、あふれる空気とか、
そういうもの。
それはあふれる時にあふれるだけ。
悲しみとか、痛みとか、そういうものは一緒に訪れる。
でもそれは何か、体に付随した信号みたいなものに感じられ、
それが起きることに対して防御しようとか、
自分で自分を必死にコントロールするような事が起こらない。
そうなってみた結果気づくのは、
悲しみは悲しいから起きるのであって、
痛みは痛いから起きるのであり。
それが起きるままに起こさせている事ができるとしたら、
それは本当に素晴らしい事なのではないかと私は思う。
心を失ってみて、心を得た気がしてしまうのだ。
2019/10/29 久保 真礼
2019/12/23
ルーティン
空であるかどうか、自分のあり様を確認したり、
相手の動きを認識しようとしたり、見ないようにしたり。
それらが全て認識を作り出す事にしかならないのを思い出し、
慌てて打ち消したり。
それらを数秒間に行い、改めて空になろうと。
そして、そんなことは全く余計なことだと思い、自嘲する。
自嘲する自分に気を取られる。
そして、そのことに気づき、それは消える。
しかし、その”消えた感触”の余韻を認識し、それにはまる。
”自分という観念”が登場する前は、
そんな区分すらなかったのに、自分でそれを作り出している。
でも、実際は、そんな自己意識がどんなに暴れまわっても
何にも影響を与えることができない。
そのことに気づくことは重要であるように思いますが、
気づいた瞬間は、強烈な爽快感があるので、
「その時の感覚」を記憶し、次もそれを反映しようとする。
それがルーティンの良否、
その有無が問題となる世界に戻ってしまうきっかけになる。
「その時の感覚」です。
「その感覚」でさえないのです。
これはつまり、自己認識を通して、
”自分で勝手に解釈した感覚に依存して安心しようとしている”
という事であり、実態とはかけ離れた事をしてしまっている。
こういう言葉自体が一つの観念ですが。
2019/12/22 下里 康志