たった1ミリでも
1ミリたりとも努力できない。
自己の存在感覚を認識することも。
今の自分の状態がどちら側なのかも分からない。
分かったところで、
それが何かに貢献するわけでもないようだ。
自分はそれを知りたいだろうか。 知りたくなるだろうか。
立ち合いでは、知りたくなる自分は確かに繰り返し登場した。
知ることに意味がないから、知る必要がないと思うのか。
それともただ、知ろうとしないという現象が起き続けるのか。
それも、どちらでもよいという気もするが、
再び、それがどちらなのかを知りたくなるだろうか。
2019/11/4 下里 康志