何かを目指しているのか
今以上に見ない。 重ねて見ようとしない。
判断しない。 評価しない。
してるように感じるのは、自己認識を通じて見ているから。
それさえやめる。 それも努力によってではなく。
そこに壁はあるだろうか。
逆に、これらを徹底するとどうなるだろう。
何の手掛かりもなく、
何の判断材料もないことに自己は戸惑う。
これでは何もできないと思う。
自分でブレーキを踏んでいないだろうか。
それは間違った方法だと決めてかかっていないだろうか。
結果が出ないことで、勝手に判断していないだろうか。
初めての水泳の時間で25m泳げと言われ、
どうやって息継ぎをしてよいか分からず、
スタートできずに途方に暮れる子どものように。
何も考えずプールの壁を蹴っていれば良かったのではないか。
必死で手足を動かし、苦しくなったら、
顔を上げればよかっただけではないか。
必死の姿を見られるのが嫌だったのか。
稽古で打たれるのが嫌だったのか。
答えは遠くにあるものと決めてかかってはいなかったか。
こういう状態になりたいと勝手に思い、
それを目指してはいなかったか。
「こういう状態」が正しいのかどうかさえ知らないのに。
2019/12/29 下里 康志