もともと彼、“生雲”の主宰者、岩城氏との出会いは十年前に遡り、
某有名トレーニングジムにおいてだった。
彼は当時トレーニングジムのトレーナーを務めていた。
僕は当時、格闘技に夢中で身体を鍛える為にジムに通っていて岩城氏の指導を受け、
又、岩城氏は格闘技の経験者であり、そのセンスは一見してそれと解る通り尋常でなく、
行く先々でプロ、選手として嘱望されていたが本人はそういう方向には興味が無い様だった。
初心者だった僕にこれから格闘技を始める為の身体作りなどを親切にアドバイスしてくれたり、
時には技なども教えてくれ、いつの間にか親しくなった。
僕は当時、身体を鍛えると同時にグレイシー柔術を習い始めた。
初めて格闘技というものを体験した時でもあった。
面白さ半分、怖さ半分の気持ちが、いざ道場に行くと怖さの方が勝っていた。
僕は小柄で、道場生は殆ど自分よりデカく、ごつい奴ばかりだった。
中には外人も交じっていて、練習を見てると凄く迫力があり、その場の空気も違う。
いざスパーリングとなると身体が硬直して、思うように動かなかったのを今でも鮮明に覚えている。
やはり見るのと実際にやるのでは、あまりに違う事に驚かされた。
だがこの経験こそ、後に貴重な体験として残ったのは間違いないと思う。
ブラジル柔術やコンバットレスリングをかじり、岩城氏のトレーニング指導の下、
非公式ながらも納得のいく実績も出せた。
志願して始めた岩城氏との素手によるほぼ何でもありの二時間に及ぶスパーリングなど、
何回倒されたか覚えていないが、 これらの経験は大きな自信となった。
そして格闘技を十年余り続ける事になり、
心身共に自分なりに鍛えられたのではないかと思い、 僕の道場通いは終わった。
それから何年か経ち、岩城氏が常々口にしていた自家篭中の武道を実践し始めたが、
僕は古武道みたいなものはピンと来なかった、いや、解らなかった事を覚えている。
当時は僕の中では格闘技は強い=最強というイメージが強かった。
逆に古武道のようなものは地味で、形骸化され大人しいというイメージがあり、
僕には興味が湧かなかった。
その僕が今は「武道」に自ら励み、「生雲」の一員として精進している。
やはり身近で武道をやる環境がある事と、
岩城氏の武道が掛け値なしの本物で、自分自身が何か変化していく事。
それに自分の身は最低限自分で護りたい。
僕は身近に、この武道の骨子である岩城氏の禅、座禅を目の当たりにして、
何かとてつもない沈黙感によって高められた静寂のようなものが部屋全体、
空間に隅々まで行き渡る様な感じがし、表現出来ないエネルギーを感じた。
僕にはとてもショックで、それは今までに見た事も、聞いた事も無く、不思議でならなかった。
あの岩城氏から生じている雰囲気は何なんだと、何度も思った。
武道を体験するに及んで、まず体格や力など、そして格闘技で経験してきた技術などが全く関係無く、
“生雲”の武道においては意味を成さない事、つまり、身体を鍛えてるからどうとか、豪腕だろうが、
パンチ、キック、関節のレベルが達人だろうが意味がないと思った。
いや、意味がないというより全く違う所で全く違う事をしている様な、
こればかりは体験してみないと言葉では表現できない。
強いとか弱いとかではなく、それ以前のところで噛み合わない。
もちろんレベルによってはこれらを思わせる質感が違うかもしれないが、
ある程度やりこなしていくと自然とそれなりに身になっていく事だと思った。
一緒に稽古している中で五十代、六十代の人達もいて、年齢や体力に関係無く、
馬鹿素直に取り組めば誰でもそれ相応のものにはなるのかと思った。
僕も考えながらやっているうちはシックリこなかったけど、
考えてどうにかなる事でもないという事が 段々解ってきたり、周りの人達に言われて気付く事もあり、
そういった稽古をしている過程の中で実になっていくものだと確信できる。
僕自身変わった事は、まずこの武道というものが生きていく中で重要だと思う様になった。
それは今の世の中、いつ何時危険に遭遇するか分からない。
そして自分の身は自分にしか守れない。その瞬間、他人は助けてくれない。
少しでも危険を回避出来なければ命の保障もない。
自分にはその気が無くても、勝手に、理不尽に向こうの方から刃物や鉄拳が飛んでくる事もある。
やはりそういった状況でも応じる事が出来なければ、殺されるか大怪我をする。
警察も法律も事後処理しかしてくれない。
中にはケンカに自信があるとか、格闘技をやっているからなどと思う人もいると思う。
しかし、例え相手の方が弱くてボコボコにしたところで本当に勝ったと言えるのだろうか?
相手に大怪我や傷を負わせ、過剰防衛だのやれ慰謝料だの前科だの、或は怨恨だの。
最悪自分の家族まで巻き込み、犠牲にする事になる。
結果として、やはりそれでは負けなのです。
もし自分がこの“生雲”に出会っていなければ、そういった場面に直面した時、
殺されるか、メタメタにされるか、勝っても相手に大怪我をさせる事にしかならない。
格闘技を経験していても、生きるか死ぬかの緊迫状態では加減など分からない。
相手は殺す気で来ているかもしれない。 この辺は本当に難しい。
しかしこの武道においては極限状態でも普段と何ら変わらない心持で状況が見える様になってくる。
僕は武道をやっていく事で「考え方」が大きく変わったと思います。
気付いた事は一緒にやっている人達の凄まじい成長ぶりです。
未経験の人や中高年の人達が熱心に頑張っている。 皆一年くらいの期間で恐ろしく化ける。
「立ち合い」といって下手(したて)を持つ側がガチンコで好きな様に攻め、
それを無防備な上手(うわて)が何もさせずに仕留めるという稽古があります。
初めはのうちはパンチもタックルも思うように決まり、思い通りだったのが、
間を空けて久々に稽古に出てみると、 パンチは当らないわ、タックルには入れないわ、
やっている人じゃないと解らないんだけど「遠い」。
届かないって分かる、明らかに。
でも相手はいつでも僕に致命打を打ち込める所にいる。
またこの“突き”が格闘技的なパンチや突きと違って重く通る。
見た目はスピードもないし、力も入ってないが、これを食らうと身体が破壊された感じで残る。
これを本気で顔面に貰ったらと思うと想像がつく。
痛みや衝撃にはある程度慣れているし、ガマンできるけどこれは別物。
波はあるものの、一年程でここまで上達するんだなと、勿論そこには日々の稽古で痛い思いをしたり、
精神的にも悩んだりと常にあるだろうし、ここで完成というものは無いし、それなりの覚悟も必要で、
決して甘いものではない。
皆そういった努力の結晶が凝縮されての事だとは思うが、
今ではすっかり下手扱いされてしまう事もある。
岩城氏の印象は、まったく手の届かない雲の上の存在です。
長く見てきていますが人間的に鍛えの入った、色々な意味で神憑った人で、
僕の思う文武両道とは正にこういう人といったイメージです。
深く、広い独自の研究や実験により、実践して証明する“生雲”は岩城氏の表れの一つだと思います。
命を危険に晒す修行にも取り組み、奇跡的な体験によって得たものも決して出し惜しみ無く、
全てを見せますし伝授してくれます。
誰よりも進境著しく、突然別人の様に理解不能な成長を見せ、止まっているという事がありません。
またその人の「良さ」を最大限にまで伸ばして、その人らしさを武道だけではなく見出してくれる。
僕の友人でもあり、師匠でもあります。
今までは非公開だったので今後は多くの人に是非この武道の本物の素晴らしさを知って欲しいです。
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