入門のきっかけは、子供の頃からずっと小心者であるという自覚があり、
武道というものを通して自分に自信をつけ、この性格を直したいという漠然とした思いからでした。
私は武道というものが全くの未経験であったこともあり、見学に行く際はとても緊張しましたが、
イメージとして抱いていた武道特有の緊張感は皆無で、始まりの挨拶があるわけでもなく、
なんとなく練習が始まったことに拍子抜けしたことが最初の印象でした。
そして稽古が始まり、その内容が不思議すぎて何がなんだか分からないものの、
稽古風景や先生のお話を聞くうちに直感で、これだ!と思い、
「これで今までと違う自分になれる!」という変な期待感を持ち、入門に至りました。
現在まで生雲に通い続けている理由は何なのか、三つの事が思い浮かびました。
一.毎回の稽古が楽しい
これは何を続けるにしても、重要な要素ではないでしょうか。
武道と言えば、苦しい、痛い、辛いといったことから逃れられないものというイメージがあり、
当初はそれに耐えながらも、通い続けるものだとある程度覚悟をしていたように思います。
しかし、生雲ではそういった事とは無縁です。
入門当初は人に掴まれたり叩かれたりと、慣れない事に当初は違和感を覚えたものですが、
言葉の通り、慣れないだけのものであったので、入門してすぐにそういった違和感は無くなりました。
また、人との出会いもとても大きいです。 とても良い人たちに恵まれ、
たとえ会話がなかったとしても、その空間にいることだけで心地よいと感じます。
二.日々の生活が楽になり、疲れて磨り減らなくなった
入門前の自分の気持ちや考えを現在と比較すると、圧倒的に以前に比べて日々の生活が楽になり、
疲れて磨り減ることがなくなったなという実感があります。
以前は漠然とした「こうならなければならない」といった、義務のような、強迫観念のような、
何か特定のものに縛られていたように思います。
しかし実際はそこに飛び込むほどの熱意も覚悟もなく、やらないといけないと思いつつもやらずに、
それがストレスになるという繰り返しでした。
また、以前は気に入らないことや思い通りにならないことがあると、
そのことに囚われてしまい、その結果として精神的に疲れて磨り減ることがよくありました。
現在ももちろん気に入らないことはありますが、そういったことに直面しても感情が続かず、
瞬時に消滅してしまい、その度にまるで素通りするように躊躇なく受容するようになりました。
これは、怒り、悲しみ、恐怖、不安のいずれにも共通して言えることで、
これに囚われなくなったことで、疲れて磨り減ることがなくなりました。
そしていつの間にか、自身が小心者であることが気にならなくなっていました。
三.この先を知りたい
休み休み体験談を書かせて頂いていたので、書き始めからここに至るまでに数週間経っていますが、
この短い間にも新しい気づきがあり、既に書いた前の文章に違和感を感じるほどの変化がありました。
また、以前を振り返って考えてみると、稽古において多くの意識すべき注意点があり、
もっと複雑なものであると認識していたように思います。
なぜ、意識すべきことが無くなったのか、それは出来るようになったから意識しないでよくなった、
というわけではなく、「いつの間にか消えていた」から、意識しなくなっただけのように思います。
それはとても静かで穏やかなものです。
周りの環境や、生きていく中で生じる思考や感情などに左右される事がありません。
寧ろ、そういったものに左右されるのが難しいとすら感じます。
このような状態に何故、居続けられるようになったのか。
思い返してみるとある稽古が大きなきっかけとなったように思います。
それは相手が自由に動き、自分も動いて相手を制するというものだったのですが、
どんなに自身で静かにしようと努め、神経を研ぎ澄ましてみても、対立を生まずに静かに動ける間、
というのは、必ず、起こった後でしか気づけないという体験をしたことからでした。
ここから稽古とはどう取り組むべきなのかを、自戒も込めて述べてみます。
まずは、「ただ聞く」ということです。
聞くときにはただ、聞くことのみに専念すべきで、
聞いた時に分からなくとも、いずれ必ず体験のみを通して、
聞いた言葉がそのまま体の中に染み込んでいくような本当の理解へと至らしめてくれます。
次は、これは何故かよく分からないのですが「体験を言語化してみる」ことです。
よく分からないなりに分析してみると、前項の「ただ聞く」とも関係していると考えます。
ただ聞くことができないうちは、どうしても聞く自分と話す人に境界を作ってしまい、
聞いた言葉を、違う何かに変えてしまいますが、自身の体験をそのまま言語化し、
それを発することで自然と自身の耳にも入り、それがただ聞くということになるために、
気づきとなり易いのかもしれません。
最後に、「とにかく稽古に数多く通う」ことです。
数多く通うことには以下の点で優位性があると考えます。
一つ目は、ただ単純に気づきのチャンスが増えること。
二つ目は、来られる回数が少なければ、稽古の時に何かの手がかりを残そうと記録してしまうこと。
三つ目は、久々に稽古に出たときに、以前の記憶に頼ってしまいがちになるということです。
数多く通うことで考える暇を与えない。即ち、何かに変えてしまわないということに繋がります。
そして、本当の理解に繋がる体験をより多くすることができます。
しかし、まだ先生のお話の中に分からないことがあったり、
稽古でもふとした瞬間に自我が入り込んでぶつかったりと、まだまだ余白があるように思います。
私はこの先を知りたいし、全てを委ねて飛び込んでみたいです。
最後になりますが、自分にとっての生雲とは何か。
それは何一つ迷うことなく、自分の人生におけるど真ん中であると言い切れます。
しかし、それは熱狂的になるのではなく、盲信的になるわけでもなく、
これからもただそこに当たり前にあり続けるものであり、
どんなに自身の環境が変わったとしても、当たり前に続けられるための努力は惜しまないつもりです。
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