武道稽古場【生雲】

女性の体験談

久保 真礼

私が武道を始めたきっかけは、精神修養のためでした。

人生が思い通りに行かなくなった事をきっかけに自分自身を振り返ってみた時、
変わらなければならないと感じました。その手段として今までしたことのない分野で、
尚且つ得意ではない事をゼロから学んでみようと思い武道を選びました。

また、精神修養と言っても宗教団体には嫌悪感があり、
身体を使う事を手がかりにすれば安心だという考えもありました。

もともとスポーツや筋肉、トレーニングや限界までの挑戦、強くなる事等への興味は
子供の頃から希薄でした。また、超能力めいた事や超常現象体験等にも一切興味はありませんでした。

一方、日本の武道の深奥を学ぶ事や、
それらの歴史に精通した先生の下で学ぶ事には好奇心が湧きました。

だからこそ、強くなれる事だけをアピールしている道場は自分に向かない事、
宗教めいた礼儀作法や理解できない上下関係が重んじられる教室も、
自分のような者には続けられない事が分かっていたため、独自の観点で道場選びを始めました。

生雲のウェブサイトを見た段階では、何が書かれているのか分からない部分が多くある印象でした。
ですが、それと同時に他の道場サイトよりも教師自身が教えの内容を根底から
理解されているような印象があり、教室自体に信頼が置けましたし、
学びの場にふさわしいと感じられました。

見学に訪れた時、藍染めの道着を着た男性陣が稽古をしている様子を見て、スポーツから遠い自分が
それを始める事は不思議な気がしましたが、実際は稽古内容を理解して入門を検討するというよりは、
訪れた時点で入門をすでに決めていたような気がします。

ちなみに、稽古場の方々は年齢層が幅広く、稽古場自体は厳しいけれども和やかで、
女性の私でも居心地の良い清々しい場所に感じられ、それは今でも変わりません。

実際に稽古を始めてみると、新しい事ばかりでした。

学ぶ分野が新しいだけでなく、学び方そのものが新しく、
それは私にとって自分自身の在り方を根底から変えてしまうほど大切な機会となりました。

結果的に変容として訪れた事を特徴としてまとめてみると、大きなところでは、
対人関係や未来に対して必要以上の恐怖や不安が無くなりました。

また、かつては「本当の自分」というフレーズに一種の軽蔑を持っていた自分が、
今では本当の自分を取り戻し、還って来たような感覚もあり、居心地よく、人生に満足しています。

現在では、自分の特性がよりはっきりと顕れる場として、稽古場はかけがえのない実験場です。

今は世界中の読み物や動画が簡単に入手でき、色々な事は自分独りで学べる時代に見えますが、
過去のデータを見ているだけで果たして本当に人間は新しい事を学べるのか疑問に感じます。

一方、関係性を用いながら実験を行い、自分自身に真実を見せながら学ぶ事ができるのは
武道の優れた点だと思います。

ただ、体験してみて思うのは、それが生きた教えである事が重要だという事です。
教師自体が技術に依存していて、過去に生きる在り方を教えるような場では、
結局、書物からの学びと同じではないかと思います。

生雲が素晴らしい点は、常に新しい瞬間に居続けるという事が
どのような事かを深く知る教師に教われるところではないかと思います。

ただ、当初、私自身はそんな事には気づけませんでした。

生きた学びとは何か?といった事は当時の私には分かるはずもありませんでしたし、
そもそもどの教師が本物であるか?といった事も、実際には見極められていなかったと思います。

それでも、何も識別できないまま縁があり、私はこの道場に訪れました。
周りにも、振り返ってみると「正直なところ、なぜここに来たか分からない」と言う方がいます。

彼等は、振り返ってみてその縁の不思議に驚かされ、
なおかつ稽古に通ったからこそ得られた何かによって変容し、満足しているように見えます。

集うべくして集う仲間がいる道場に自分が通える事に幸せを感じ、磨くべきものを磨く日々です。

男性の体験談

植村 健司

入門のきっかけは、子供の頃からずっと小心者であるという自覚があり、
武道というものを通して自分に自信をつけ、この性格を直したいという漠然とした思いからでした。

私は武道というものが全くの未経験であったこともあり、見学に行く際はとても緊張しましたが、
イメージとして抱いていた武道特有の緊張感は皆無で、始まりの挨拶があるわけでもなく、
なんとなく練習が始まったことに拍子抜けしたことが最初の印象でした。

そして稽古が始まり、その内容が不思議すぎて何がなんだか分からないものの、
稽古風景や先生のお話を聞くうちに直感で、これだ!と思い、
「これで今までと違う自分になれる!」という変な期待感を持ち、入門に至りました。

現在まで生雲に通い続けている理由は何なのか、三つの事が思い浮かびました。

一.毎回の稽古が楽しい

これは何を続けるにしても、重要な要素ではないでしょうか。

武道と言えば、苦しい、痛い、辛いといったことから逃れられないものというイメージがあり、
当初はそれに耐えながらも、通い続けるものだとある程度覚悟をしていたように思います。

しかし、生雲ではそういった事とは無縁です。
入門当初は人に掴まれたり叩かれたりと、慣れない事に当初は違和感を覚えたものですが、
言葉の通り、慣れないだけのものであったので、入門してすぐにそういった違和感は無くなりました。

また、人との出会いもとても大きいです。 とても良い人たちに恵まれ、
たとえ会話がなかったとしても、その空間にいることだけで心地よいと感じます。

二.日々の生活が楽になり、疲れて磨り減らなくなった

入門前の自分の気持ちや考えを現在と比較すると、圧倒的に以前に比べて日々の生活が楽になり、
疲れて磨り減ることがなくなったなという実感があります。

以前は漠然とした「こうならなければならない」といった、義務のような、強迫観念のような、
何か特定のものに縛られていたように思います。

しかし実際はそこに飛び込むほどの熱意も覚悟もなく、やらないといけないと思いつつもやらずに、
それがストレスになるという繰り返しでした。

また、以前は気に入らないことや思い通りにならないことがあると、
そのことに囚われてしまい、その結果として精神的に疲れて磨り減ることがよくありました。

現在ももちろん気に入らないことはありますが、そういったことに直面しても感情が続かず、
瞬時に消滅してしまい、その度にまるで素通りするように躊躇なく受容するようになりました。

これは、怒り、悲しみ、恐怖、不安のいずれにも共通して言えることで、
これに囚われなくなったことで、疲れて磨り減ることがなくなりました。

そしていつの間にか、自身が小心者であることが気にならなくなっていました。

三.この先を知りたい

休み休み体験談を書かせて頂いていたので、書き始めからここに至るまでに数週間経っていますが、
この短い間にも新しい気づきがあり、既に書いた前の文章に違和感を感じるほどの変化がありました。

また、以前を振り返って考えてみると、稽古において多くの意識すべき注意点があり、
もっと複雑なものであると認識していたように思います。

なぜ、意識すべきことが無くなったのか、それは出来るようになったから意識しないでよくなった、
というわけではなく、「いつの間にか消えていた」から、意識しなくなっただけのように思います。

それはとても静かで穏やかなものです。
周りの環境や、生きていく中で生じる思考や感情などに左右される事がありません。

寧ろ、そういったものに左右されるのが難しいとすら感じます。

このような状態に何故、居続けられるようになったのか。
思い返してみるとある稽古が大きなきっかけとなったように思います。

それは相手が自由に動き、自分も動いて相手を制するというものだったのですが、
どんなに自身で静かにしようと努め、神経を研ぎ澄ましてみても、対立を生まずに静かに動ける間、
というのは、必ず、起こった後でしか気づけないという体験をしたことからでした。

ここから稽古とはどう取り組むべきなのかを、自戒も込めて述べてみます。

まずは、「ただ聞く」ということです。

聞くときにはただ、聞くことのみに専念すべきで、
聞いた時に分からなくとも、いずれ必ず体験のみを通して、
聞いた言葉がそのまま体の中に染み込んでいくような本当の理解へと至らしめてくれます。

次は、これは何故かよく分からないのですが「体験を言語化してみる」ことです。

よく分からないなりに分析してみると、前項の「ただ聞く」とも関係していると考えます。

ただ聞くことができないうちは、どうしても聞く自分と話す人に境界を作ってしまい、
聞いた言葉を、違う何かに変えてしまいますが、自身の体験をそのまま言語化し、
それを発することで自然と自身の耳にも入り、それがただ聞くということになるために、
気づきとなり易いのかもしれません。

最後に、「とにかく稽古に数多く通う」ことです。

数多く通うことには以下の点で優位性があると考えます。

一つ目は、ただ単純に気づきのチャンスが増えること。
二つ目は、来られる回数が少なければ、稽古の時に何かの手がかりを残そうと記録してしまうこと。
三つ目は、久々に稽古に出たときに、以前の記憶に頼ってしまいがちになるということです。

数多く通うことで考える暇を与えない。即ち、何かに変えてしまわないということに繋がります。
そして、本当の理解に繋がる体験をより多くすることができます。

しかし、まだ先生のお話の中に分からないことがあったり、
稽古でもふとした瞬間に自我が入り込んでぶつかったりと、まだまだ余白があるように思います。

私はこの先を知りたいし、全てを委ねて飛び込んでみたいです。

最後になりますが、自分にとっての生雲とは何か。
それは何一つ迷うことなく、自分の人生におけるど真ん中であると言い切れます。

しかし、それは熱狂的になるのではなく、盲信的になるわけでもなく、
これからもただそこに当たり前にあり続けるものであり、
どんなに自身の環境が変わったとしても、当たり前に続けられるための努力は惜しまないつもりです。