人間は完全な自由を生きる事は可能でしょうか。
その実際の作用とはどのようなものでしょうか。
宗教、哲学、瞑想、技法、その中に観念ではないものはあるでしょうか。
生きた事実は いつも今ここにしかなく、それは観念を必要としていません。
"生雲"の探究は、自己認識を介さない "作用" を実証する試みから始まりました。
あるゆる知識と技術は実験の為に、そして捨て去る必要を知るために用いられます。
その実験には可能な限り、考えられる限り極限の厳しさを求め、怪我人も多々出ました。
当初は安全を犠牲にしなければ真偽の確信に至らず、欺瞞の種を残す事になるからです。
しかしそれは架空の精神世界に完結しないための優れた試金石でした。
身体という現実を伴う武道は 非常に有効で優れたツールとなり、
自分の思い込みが通用しない 他人の介在は必要な助けとなります。
熱心で協力的な信頼関係に基づく一切の手加減を許さない実験によって、
当事者一同は認識と考え方を根本的に変える必要に迫られました。
それは誰かの理解やコントロールによって行使できるような類のものではなく、
明らかな現実として当然のように再現され、同様に再現できなくなるものでした。
"認識以前の作用"は無為自然で、知解、記憶、観念に変わる事により隔てられます。
認識以前の事実を 記憶や概念によって意図したり想定して再現する事はできません。
事実は思考の中ではなく "今"、認識判断や思量分別"以前"にあるからです。
作用としての武の極致は 只管による修証であり、突き詰めれば見性悟道に帰し、
見性したなら もはや武道やその作用といったものに拘泥する事もなくなります。
それは思考で先取りする事ができず、記憶、経験の中に所有する事ができません。
対象として捉える事ができず、比較不能であり、思惟する事も措定する事もできません。
認識が介入する限り あるがままの事実を既知の観念的理解と理想に歪める運動があり、
巧偽な妄想による抜け出せない葛藤となって 一歩も進めないという事態に直面します。
淘汰され続けて来た現在の"生雲"は直截的な気づきの場として安全で無駄の無い内容と、
自己欺瞞に停滞しないよう導き続けてくれる仲間に恵まれた 稀有の集いとなっています。
Copyright, www.budou-icmo.com, All Rights Reserved.