"只管の事実"と、只管という"概念"は真逆です。
認識とは事実の後に生じるものであり、認識がこの認識以前の事実に触れる事はできません。
認識を用いない在り方に 概念的理解から生じるあらゆる行為は到達する事ができないのです。
認識が完全に止み、事物の縁起によって止んだ認識が蘇る時、自由自在の極致が自覚されます。
認識主体という虚偽が終わり、この身心がそのままで解脱していたという事実にぶつかります。
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