正直こんな事ができるのか、という興味と疑いが入門の動機でした。 わけのわからないまま接触しては崩され、言われた通りに自分もやろうとするができない。 稽古を始めて長い間そのような状態が続き、納得のいかないこともあったように思います。 それでも稽古の後は毎回頭から余計な考え事が無くなり、すっきりした気分になっていました。 稽古を休んだ時の方が、かえって精神的な疲れを感じるようになっていました。 徐々に稽古の内容で失敗する、できないということが自分の中で問題になり、 100%の成功を理想とする試行錯誤を始めるようになりました。 自らの希望による妄想が作り出した完璧な状態への期待と憧れ。 しかし、概念を持ち込んでは打ち砕かれることの繰り返しが続き、 それをまた概念で解釈し、わけが分からなくなる始末でした。 成功した時の言葉やイメージを頭の中に描いて動く、それを記憶し行使して失敗する、 失敗するとそれをやめようとしてまた頭を働かせ失敗する、と言った具合に。 驚くべき事に概念を行使しようとする限り、 その概念に基づいた行動の全てが現実を妨げていたのです。 自分の変化は、結果への反応に巻き込まれなくなったことで訪れたと思います。 それはまず失敗したと思っている自分に気づくということでした。 できる、できないではなく起きることが起きるという現実への理解と受容に至った時、 深い安堵感がありました。 分別認識以前の気づきで在り続け、現象への解釈を挟むその前にいる事。 周囲の人達が次々と上手に入るように、自分もその在りように決定的に気づく事。 そこへ決定的に帰還したいという焦りが募り始め、努力をすれば茫然自失に行き着き、 月日が過ぎ、これはもうどうしようもないと思いました。 その非可逆的な在りようへの帰還、それは気付くと拍子抜けという形でやって来ました。 今、先達の言葉を読んで思うのは、自分はそれらを理解していたというよりは、 そういった考え方の一つとして受け入れていたに過ぎないということです。 今となってみれば、自分的受容や納得とは驚くほど関係がなかったなと思います。 しかし、生雲に於いて求める人が真摯に、誠実に取り組むことができるならば、 それは誰にでも訪れるものだと思います。 これは体験と目撃によって疑いようもないものです。
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