教わる、ということ
立ち合いで、入られて、完全に真っ白になった瞬間、
分からない、と本能的な反応で拒否する様子を見る時がある。
それは分からない、と。
仕方の無いぐらい、受け入れられない拒否を見る。
人間にとって自然な反応で、
多分自分もやっているのだろうと思う。
だけど、真っ白になった瞬間が大事なのであって、
あなたの分からない、という拒否は別にどうでもいいのだ、
と思う。
分かる、も必要ないけれど、
分からない、も必要ないと思うのだ。
なぜって、あなたは関係の無い事だからだ。
もちろん、私も関係が無い。
だけど、自己を履き違えたままだと、
分かるでも、分からないでも、いずれにしても認識に
乗っかって行って、そこからさらに判断に価値を与える。
あなたのそれは分からないから、違っていると思う、と。
それは、教わる人の在り方じゃない、と思う。
なぜ、教える人よりあなたが知っているのだろう。
教えている人を、見くびってはいけない。
それは礼儀とかではなくって、
見くびっている時間、あなたは目の前を逃している事になる。
ただそれだけの事です。
お節介ではあるのだけど、
今を見失うのでは、稽古の時間がもったいないから。
2017/3/27 久保 真礼