2022/05/02
なんと
本当に、なにも、関係ない。
それはとても説明できるとは思えない。
理解を超えているということを
何らかのイメージに代えることも特にできない。
こう言うと、その発見の持ち主がいるかのようだが、
そんなものがないから説明できるはずがないだけのこと。
なのに、この説明を誰か個人が得た情報と捉え、
追体験を目指すような取り組みに終始してしまうのは
残念なことだと思う。
あらゆることは、あると思う人への回答であって、
そのどれもが幻であること。
幻を肥やすことに加担したくない。自分のためにも。
ところで、迷う人が残っているとき、
迷っていることに気づけるのだろうか。
案外、夢の中にいるだけあって、
気づけないのではないかと思う。
そういうもののない時に初めて、
迷うおかしさに気づくだけで。
だから人は取り組まないことで
どんどん曇って埋没していくのだな、と思う。
2022/4/29 久保 真礼
2022/05/01
学び方について
言われている事を
実生活を通じて実証してみることは良いと思う。
稽古よりさまざまな状況があり、時間もあるのだから。
言われている事を本当だったと感じるほど
きちんと実証すると、稽古での進境も見えてきたりする。
でも、認識の範疇で中途半端に学ぼうとすると、
その発見は結局ゴミになる。
自分とか自分の価値認識といったものは
何一つ掃除されないままだから、
取捨選択がおかしなままなのだと思う。
本当に恵まれた人というのはきっと、実証などせずとも、
言われたその時点でそれがそうであることを疑わず、
その只中に入って行ってしまい、もう戻って来ないのだろう。
そういう天才でもないかぎりは、一度取り組んだら、
最後まで取り組まないと逆効果なんだろうな、とも思う。
一度得てしまった認識は、
もう二度と役に立たないのにそこにすがってしまい、
次にあたらしく学べばよいと思っても、
学びの姿勢がどこか緩くなるから。
稽古は、途中から学ぶというのは不可能で、
いつだって何も持ち込まずに学ぶ以外、
進境を得る方法はないと私は思う。
2022/3/7 久保 真礼