掃除をしていて気づいた事
休みの日に、おもむろに窓の桟を掃除し始めた。
特にピカピカにしたかった訳ではなく、
手が勝手にそうし始めたので、そうさせておいた。
マイクロファイバー雑巾を使い、桟を拭く。
それでは固まってしまっている小さな泥は落ちなくて、
霧吹きで湿らせる。
その間に別の所を磨いて、少しして湿らせた桟に戻ると
(と言っても距離30センチほどでの出来事なのだが)、
泥は簡単に落ちる。
爪楊枝を使って泥を掻き出す。 雑巾で、拭く。
部屋の中。
外は天気が良いのに、私は小さな場所を掃除する。
別にあてもない掃除で、目標もない。
それが掃除と呼べるものなのかも分からない。
ただ、気になる事、やりたい事をしているだけ。
そうしているうちに、ふと気づいた。
雑巾がけ、自分のペースでやっては駄目なのだ、と。
雑巾には雑巾、桟には桟のスピードがあるのだった。
そちらに完全に任せてみると、
自分が思っているスピードよりもだいぶ遅い。
でもそうすると、不思議なぐらい汚れが取れる。
力も何も入れていないのに。
自分が思っているスピードから離れ、
彼らのスピードに従って汚れが綺麗になっていくのを
一緒に体験していると、不思議と平和が訪れる。
綺麗になるから平和になる訳ではない。
そのスピードの和の中に留まり、動いている事が平和だった。
ちなみに、あの自分的な雑巾のスピードは、
それが良いものと言う思い込みから来ているのと、
てきぱきやりたいと言う癖から来ているようだった。
ただ、それは元々この人間がそのような性分なだけであり、
別に、それ自体が人生をねじ曲げるほどの問題になるとは
思えなかった。
もし問題になるとすれば、その掃除の時間に感じた、
無意味な焦りぐらいか。
結果を出したいのに思うように出ない苛立ちとか。
でも、どうだろう。
自分の思い通りの手段でモノを手に入れたい、
と言うイメージが叶わない事で焦るのって、
独り相撲じゃないか、と今や思う。
仕事でも時々感じる、無意味な焦り。
誰にも求められていないスピードで仕事をこなしたい、
若干ズレのある行為。
最近、私はそれをやめるようになって来ている。
仕事には終わるべき時期があるらしく、選んでも仕方なく、
始まって終わるその運命の通りに従うのが一番、と言うか、
それ以上の事をしても得られる事が少ない。
(むしろマイナスが多い)
最近、ギアをまた一段落とし始めた。
すると不思議な事に、それでも焦っている自分がいる。
そしてそれが原動力となって、
慎重に仕事をチェックするようになっている。
焦りが、別の形に昇華して行く。
+
掃除は、途中で終わった。
窓を開けて作業を続けるには、風が冷たくなって来たからだ。
14時を過ぎ、
ずっと待ち続けてくれていた犬を外に連れて行った。
外を歩くと、思った以上に暖かかった。
散歩も、行くあてが特に決まっていない。
神経質に他の犬のフンを踏んだらどうしよう、などと、
思わなくなっていた。
踏んだら踏んだで、その時考えよう、
などといった下らない対処法を想定する事もなくなっていた。
ただ歩く事が楽しい。
ただここに在る事が幸せ。
私と犬は隔たりが無く、一つになっていて、
彼は私をぐいぐいと引っ張ったりはしない。
ふわふわと、一緒に歩く。
ゆったりと、一緒に休む。
向きが変わり、背中に太陽が当たる。 暖かい。
風は心地良い。
ずっとこのままがいい。
何も、怖くない。
2017/12/4 久保 真礼