生雲のすべて
上手(うわて)は只管。
認識を用いず、六根の機能と作用だけ。
下手(したて)は公案。
対象と同化して一つとなり、
自己を忘じて主客の認識が落ち、只管に至る。
“只管”は至道。
微かな自助努力も不能で残れず、認識の介入を許さない”今”。
上手(うわて)は只管。
認識を用いず、六根の機能と作用だけ。
下手(したて)は公案。
対象と同化して一つとなり、
自己を忘じて主客の認識が落ち、只管に至る。
“只管”は至道。
微かな自助努力も不能で残れず、認識の介入を許さない”今”。
立ち合いの稽古に於ける 生雲でいう上手(うわて)は、
考えると動けず、認識が介入した通りに撃ち込まれます。
同じく立ち合い稽古での 生雲でいう下手(したて)は、
素質と誠意がなければ成立せず、悉く上手に至りません。
最近は全体的に上手一辺倒でいく事が殆どとなりましたが、
良い下手は稽古において、上手の真偽を見破る試金石です。
上手が認識の介入によって居付き、停止した瞬間、
上手が自分でその事に気づくより速く撃ち込みます。
相手と一つになる事で自己を忘じ、自他の境が消える。
撃ち込むという役割が、作用となって果たされるのです。
相手は自分が事実から逸れ、認識の中に居たという事に、
撃たれて気づきますが、それも分からないのが殆どです。
認識を残した方が 事実に取り残されて必ず止まる。
逆に上手が確かだと、下手は何も出来ず、自崩れし、
その本物の作用に自ら身をもって触れる事ができます。
下手から崩れず、そのまま相上手になることもありますが、
何れにせよ、立ち合いは互いを点検する意味があるのです。
在り様がはっきりすれば、どんな自助努力も不能不要です。
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