2017/09/12
照れ隠しか?
前回稽古終盤における、私の馬鹿笑いについて、
何か書かれることを期待している方・・・、居ないか・・・。
とりあえず、コメントしますが、よく分かりません。
一つ言えることは、
下手の存在を知覚したときに笑いがこみ上げました。
それも毎回、何度でも。
これまで下手を知覚したときは緊張が起こり、
何らかの対応が起きていたように思います。
今回も緊張は起こりましたが、何故か対応は起こらず、
緊張は対象に向かって凝縮するどころか、拡散して消え、
注目するものが何もなくなってしまった感じでした。
その何もなさを埋めるように、あるいは、
その何もなさに戸惑っていることの照れ隠しのように
笑いが起こっていたようです。
いつもなら、もう少し解説できるのですが、
今回は無理そうなので、ここで止めます。
2016/8/19 下里 康志
2017/09/11
書けないということ
発想が途中で止まってましたね。
邪魔しているものを見つけて消し去るのではなく、
受け止めることそのものをやめる必要があるのですね。
それは分かっているよ。
という感想を持つ方も多いと思います。
それでも、「受け止めないことを実践している」という
実感がある時には既にそうではなく、
一瞬前にそうだったことを後から認識しているに過ぎない。
この違いを見失うのはとても簡単です。
そうなると、何が悪いのか、
永久に気づかずに彷徨い続けることができそうです。
下手から指摘された問題点を手掛かりにするのも、
似たような状況を生むかもしれません。
指摘された問題点は、その瞬間の問題点の一部(断片)を
指摘したものでしかないことが、しばしばあります。
それを全てだと思いこんで、いつまでも対処し続けることは、
次の瞬間から新たな問題を生むこともある。
それが問題点だと認識できた時点で既に怪しい。
そもそも指摘した方も、そんなつもりで言っていなかったり。
自己が捉えられる範囲に収まる程度の問題点なんて、
そもそも問題にするほどの値打ちがあったのかどうか。
このあたりのことは、既に指摘されたことを
言い換えているだけのような気がしてきたので、
日記が書けなかったことの核心に迫りたいと思います。
誰かの日記を読むと、
その時、自分の中にあったものに作用して、消える。
書けそうだと思っていても、
時間があるときに書こうとすると、その間に消える。
書くなら、すぐに書き始めないと賞味期限が切れてしまう。
まさに生ものですね。
2016/7/23 下里 康志