「笑う」について
下手(したて)を取らせてもらって感じたこと。
ソフト剣をだらりと下げて持っていたのに、
何故か大きく振りかぶり、振り下ろしました。
自分の動きに驚き、唖然としました。
少しでも格技をやったことがある人は分かると思いますが、
高練度者を相手に絶対やらないはずの、非合理的な動きです。
でも、合理的な動きとは何でしょうか。
何と比べて合理的なのでしょうか。
この疑問に対して、今持ち合わせている答えは、
ぼやっとしているので、保留します。
何故、驚き、唖然としたのか。
それは、自分の中にある前提が浮き彫りになったからです。
何もしないで立っていると思っていたのですが、
合理的だとされる動きをするという前提をしっかりと持ち、
それに反する動きをしてしまったことに驚いているわけです。
これまで集めてきた技術、
それらを体系化した合理的な動きを必ず実践できると
思い続けてきた自分を発見して呆然としているわけです。
その時、感じたのは、全身のあらゆる部分の動きを
自分がコントロールしていないという、圧倒的な確信でした。
上手で立っている時には分からなかったのですが、
下手で「非合理的」な大きな動作をして明瞭となりました。
そしてそんな動きなのに打ち込めてしまっているという現実。
自分が介在しないにも関わらず、自分の身体が機能し、
やるべきことが行われている。
身体をコントロールする役割を奪われ、
呆然として言葉も出ない。
できることは、笑うくらいのものです。
家に帰ってから、唐突に気付きました。
渡辺さんを相手に上手をとらせてもらい、
何故か崩れまくった過日の体験。
あれは、自分の身体をコントロールしようとする
自分がいないことが瞬間的に明らかとなり、
残っている自分のコントロールが抜ける瞬間だったのだと。
ただ、残念なことに、
次の瞬間に下手の動きに対応する自分がカムバックし、
ボコボコに打たれていました。
これらの気付きを得ても、喜ばしいとは思いません。
逆に、まだ残っているものがあったことを残念に感じます。
自分の中にあるものなのに分からないとは。
2016/8/31 下里 康志