自分にとって大切なもの
稽古と縁して知る、このような取り組み。
一時も忘れずに取り組んだ先に、何かあるのか。
このような事に取り組まなければ、
人生、苦節続きから抜け出せないのでは。
などなど、取り組みにまつわる様々な想い。
これについて、あれ?と思った事があった。
このような取り組みや修行への集中力とか努力、
そうせずにいられない想いと言うのは、結局のところ、
ただの新しい玩具、新しい流行熱、新しい執着と同じでは、
と。
そもそも取り組まなければ、どうにもならないのだから、
それに意味が無いとか、下らないとは今なお全く思わない。
だけど、想い自体が、立派とか、大切とか、
そう感じていない人より偉いとか難しい事に取り組んでいる、
という事になる訳ではない。
想いって、ただの執着でしかなかったと気づいて、
愕然とした。
言葉の意味だけで考えれば当たり前なのに、
想いと言うだけあって、いろんな価値がくっついていて、
さも大切かのように勘違いしていた。
どのような想いであれ、
その土台というか背景と言うか、そっちでしかないという事。
結局、最終的に一つだけ大切なものがあった、
とかいう訳ではないと気づいた。
こういう取り組みには熱意が大切、と言われて来たけれど、
それは、大切だと言う想いや執着とは全然違うものが本物で。
それは自分では選べない類の熱意だった。
だから、ただ取り組みだけにしないと駄目って事。
そして一番それがつまらない。
人は普通、自分の想い・執着の方が大切なのだから。
2017/11/23 久保 真礼