間とか
稽古で挫折する人の特徴として。
先生から求められているものをパーツのように切り取って、
それを再現できるか等に執着し、終始する、というのがある。
そもそもの観点がおかしい。
稽古で求められている事を、
魔法使いの技のように扱う事を妄想し、試みようとしている。
自分がそういう事ができる可能性を期待している。
”間” と呼ばれるものは果たして必要かと思う時期があった。
だけど、それが容易くないと 今の稽古は難しいかなと思う。
分離以前の関係性とは”間” に100%順じてこそであるし。
“間は認識的にわかるんだけど” と思う人もいるだろう。
だけど、思っている限りは動けない。
この”間” はわかる。
でも、それに順じると立場的に悪いから拒否するか、避ける。
そういう立ち合いを見る時がある。
でも、いずれ、望まなくても、どんなに拒否しようとも、
死にますよ。
と、思ってしまう。
何かの活動の終焉とか、死とか。
避けられない何かときちんと向き合う機会があったかな、
と思う。
稽古と日常を通じて、その体験はないのかな、
と思ったりする。
2019/3/28 久保 真礼