祈る私
祈りが身近にあった10代の頃を過ぎてみて思うのは、
祈りとは、祈る者がいない方が合っているという事だ。
ただそうなると、もはや祈りに価値なんて見い出せない。
祈る内容がたとえ崇高なものでも、
祈る姿がたとえどれほど素晴らしいものでも、
それは、つまるところ こういう意味ではないかと感じる。
「 神よ、私はあなたが与えたものを気に入らないので、
返品交換したいのです 」
精神は何ものにも向かわず、
完全に自由である事は可能だろうか。
何の方向性もなくある事は、可能だと思う。
方法とか状態として保持しようとしなくなればなるほど、
それはただ普通で、思い出せるものも特になくなる気がする。
2019/3/23 久保 真礼