手順探しから抜け出せない事について
自己にとって都合の良いものも、悪いものも、
目に映っている(と認識している)ものも、
映っていないものも、
聞こえている(と認識しているもの)ものも、
そうでないものも、自己も、自己以外も、
全て受け入れ、何か影響を及ぼそうともせず、
理解しようとする努力もしない。
その時の心持ちは、完全にフラットというより、
慈愛と信頼のような気がしました。
影響を及ぼさないからといって、無関心というのではなく、
むしろ目前のものすべてに夢中であるような気さえします。
そして、一瞬といえども自分の状態を気に掛ける余裕など
ないのだと思いました。
気にかけた瞬間にすべてが台無しになるような。
その一方で、それは何の意図も、努力も必要とせず、
そうしていることしかできない。
以前、眠っていて目覚める瞬間、
意識がはっきりする前の状態で居続けることが
できれば良いのに、と思ったことがありますが、
そのようなものも手順に過ぎない。
これまでの稽古においても、日常生活においても、
ほとんどの時間を自分の状態、そのあり方、手順、工夫、
手掛かりの発見と確認に費やしてきたような気がします。
このような努力や悩みが自分にとって深刻だと感じるか、
それを誤魔化すか、今ではどちらでも良いと感じますが、
それを選ぶこともできそうにないです。
プロセスが重要だとも思いませんが、
意図して回避することもできなそうです。
きついと感じる日々もあると思いますが、
それぞれの進み方があるのだと思いました。
2022/1/10 下里 康志